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タスマニアは、1642年にオランダ人のアベルタスマン(Abel Janszoon Tasman 1603−1659)が発見しました。アベルタスマンは、発見した島の名前をバンディーメンズランド(Van Diemen's Land)と名付けました。バンディーメン(Anthony Van Diemen 1593−1645)は、オランダ東インド会社のアジアでの本拠地バタビア(現ジャカルタ)の総督です。オランダ東インド会社は、インドネシアのバタビア(ジャカルタ)に本拠地を置いていました。
1635年からバンディーメン(Anthony van Diemen)が総督になっています。バンディーメンは、24歳の時に東インド会社に入社しました。若くして頭角を現したバンディーメンは、1635年に43歳でバタビアに東インド会社の総裁として赴任しました。
1637年には、日本で島原の乱が勃発し、徳川幕府を支援したオランダ東インド会社は、宿敵ポルトガルの追い落としに成功します。

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 タスマニアは、1642年にオランダ人のアベルタスマン(Abel Janszoon Tasman 1603−1659)が発見しました。
アベルタスマンは、発見した島の名前をバンディーメンズランド(Van Diemen's Land)と名付けました。バンディーメン(Anthony Van Diemen 1593−1645)は、オランダ東インド会社のアジアでの本拠地バタビア(現ジャカルタ)の総督です。
オランダ東インド会社は、インドネシアのバタビア(ジャカルタ)に本拠地を置いていました。
1635年からバンディーメン(Anthony van Diemen)が総督になっています。
バンディーメンは、24歳の時に東インド会社に入社しました。
若くして頭角を現したバンディーメンは、1635年に43歳でバタビアに東インド会社の総裁として赴任しました。
1637年には、日本で島原の乱が勃発し、徳川幕府を支援したオランダ東インド会社は、宿敵ポルトガルの追い落としに成功します。

 1641年には、それまでポルトガルが独占していた平戸商館は、閉鎖され代わって長崎の出島にオランダ商館が開かれました。
オランダ東インド会社は、キリスト教を持ち込まず、完全にビジネスに徹して成功しました。
日本とのビジネスの独占に成功したバンディーメンが次に取った方針は、南方の開拓です。
1942年8月に東インド会社所属の39歳の若き船長アベルタスマンにオーストラリア(当時は、大南方大陸 Great South Land)南部の探検を命じます。その頃までにオーストラリアの北部海岸は、東インド会社によってある程度は測量されていましたが、人が住むのに適さない場所と判断されていました。アベルタスマンは、オーストラリア大陸をニューオランダと名付けています。

 当時の羅針盤と天体観測を使った航海法は、基本的は、東西方向または南北方向への一直線を基本とします。また帆船の風に対する航海能力も非常に低く、目的地に向かってまっすぐに進むことは非常に困難でした。
バタビアを出発したタスマンは、まず逆の方向であるモーリシャスを目指しました。
オーストラリアの南方へ到達するには、いったん、逆の方向へ進路を取る必要があったのです。そこからオーストラリアの最南端を目指しますが、前人未踏で海図も地図もなく船長の経験と勘だけが頼りの探検航海です。1642年11月24日タスマンが到達したのは、タスマニアの西海岸(Macqarie Harbour)の沖です。
1642年12月3日に荒れた海を船員が陸地まで泳いでいってオランダの国旗を掲げ、この島をバンディーメンズランドと命名し、領有を宣言しました。

 タスマニアの領有を宣言した後、タスマンは豪州東海岸を北上してバタビアへ帰還を試みますが、海が荒れていて非常な困難に出会います。結局、12月13日にたどりついたのは、ニュージーランドの南島です。
アベルタスマンが経験ある有能な船長であったことがわかります。

バンディーメンは、1645年4月に総督のままバタビアで亡くなっています。バンディーメンズの奥さんマリアは、その後、オランダへ帰国しました。
アベルタスマンは、マリアの名前をニュージーランドの北島にマリアバンディーメンズ岬(Cape Maria Van Diemens)と1643年に名付けています。



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