
2008年7月18日(金)
Julian's Cafe Bakely
Sheean Walk
ラトローブ Latrobe バスハイウェイ Bass Highway タスマニア Tasmania
この場所の地図 Google Map
今日は、曇りから霧雨のメルボルンでした。夕方になって多少、晴れてきました。明日は晴れの予報ですが、このところ週末の天気予報はほとんど当たってません。
昨年の今日2007年7月18日(午後のオフィス街)
タスマニア百景トップ
Bells Parade Antiques
93 Gilbert Street, Latrobe
03 6426 1006
船具など船のアンティークが中心のお店。
タスマニアの最初の入植者は、シドニーのJohn Bowen中尉に率いられた小規模な一隊で、Derwentの東側のRisdon
Cove入り江に1803年に入っています。こちらはその後廃止になっています。
次の入植者は、デヴィッドコリンズ大尉(David Collins)に率いられた一隊で、Derwentの5kmほど東のサリバン入り江(Sullivan's
Cove)に1804年に入植しています。
こちら側が飲料水が豊富だったからです。サリバンコウブが後にホバートに発展します。コリンズ大尉は、タスマニアの1804年から1810年まで初代総督(Lieutenant -Governor)となっています。デビッドコリンズ大尉は、ビクトリア州の最初の入植者としてもしられています。メルボルンのシティのコリンズ通りに名前を残しています。
バプテスト教会礼拝堂(1892年建設)
なお、ホバートの名前は、当時の英国植民地担当大臣であったホバート卿(Loar
Hobart)の名前に由来しています。
当時の入植者は、囚人と監視の兵隊でした。農業と軽産業を確立して自給自足を目指していました。ホバートだけでなく、タスマニア全体に多くの囚人植民地が作られました。ポートアーサー(Port
Arthur)には、刑務所が作られました。タスマニア全体が流刑地でしたが、ポートアーサーは、流刑地の中刑務所であり、その苛酷さ有名でした。
ビクトリア州への移民は、1835年のタスマニアからの植民団でした。
なぜ、シドニーへの植民の次は、タスマニアであるのかという疑問があります。これは当時の航法と豪州の位置関係によります。
コリンズ大佐
Latrobe IGA
1490−1500年頃、ポルトガル人の探検家はアフリカの最南端喜望峰に到達し、インドまで到達しています。1500年代には、アメリカ大陸の発見、マゼランの世界一周と世界が大きく広がりました。
当時の航法は、羅針盤によって北極星を観測して緯度を割り出すことしか出来ません。経度は時計によって測定します。また帆船の性能も限られたものでした。既に海図があってはっきりしている場所以外では、南北方向、東西方向にまっすぐに走らせることが最も安全で速い航法でした。即ち喜望峰からまっすぐ東に走ってきた地点は、南オーストラリア州のRobeの町あたりになります。そこからシドニーへ向かうには海の難所バス海峡を踏破することが必要です。そこで風向の関係で流されるのがタスマニアです。つまり英国から豪州を目指した場合、比較的到達しやすいのがタスマニアでした。
ローブ 海岸
Latrobe 郵便局
豪州南岸を最初に発見したアベルタスマンや次に到達したクック船長もともに最初に到達したのは、タスマニアであり、次に到達したのがニュージーランドであったのは航法、船の能力、風向などの関係があったからです。逆に言うとバス海峡を越える必要があるメルボルンを目指すのはかなり難しかったのです。メルボルンへの植民がタスマニアに比べて32年も遅れたのはそういう理由によります。
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