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ロンセストン港 Port of Launceston

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2018年4月8日(日)
ロンセストン港  
Port of Launceston
ロンセストン タスマニア
Launceston, Tasmania
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ロンセストン港は、タスマニア州ロンセストン市の中央部に位置し、タマー川に面する。タマー川は、汽水であり、潮の満ち引きがある湾である。ロンセストンの悪漢、ジョン・バットマンとジョン・パスコ・フォークナーの二人がメルボルンを1835年に設立している。ロンセストン港は現在ではほとんど使用されなくなっており、工業製品などはジョージタウン港から出荷され、ジョージタウンにはアルミの溶解炉などもある。

撮影データ Canon EOS 40D 絞り優先AE 価測光 1/320 F8.0 ISO感度 100 オート 露出補正 JPG レンズ EF-S17-85mm f/4-5.6 IS USM
2008年2月15日9:34 板屋雅博撮影


  ロンセストンは、ホバートに次ぐ第二の都市で、豪州第12番目の都市である。1806年に英国人の移民が始まり豪州で最も古い都市のひとつである。英国コーンウェルの都市の名前に由来する。豪州で最初の下水道や水力発電による電灯を整備するなど近代的都市であった。町の中心地にはタマー川が流れており、バス海峡からは、45kmの距離にあり、最も近い海港はデボンポート(Devonport)で100kmである。ロンセストンの港は水深が深く、川幅も広いので、ヨーロッパからの探検船や移民船が島の内陸部まで入り易いという利点があり、早期から利用されロンセストンやタスマニアの開発に利用されてきた。


  1798年にマシューフリンダース船長と船医ジョージバスがバス海峡調査の一環で、ロンセストンを調査している。デボンポートに上陸した後にロンセストンを調査し、移住可能な場所としている。1804年に英国軍中佐 William Patersonと部下がジョージタウン(George Town)にキャンプを張ったのが最初で、数週間後にヨークタウン(York Town)に移動、翌1805年にロンセストンの場所に移動したのが最初であった。当初は、中佐の名前からPatersoniaとしたが、直ぐにNSW植民地総督 Captain Philip Gidley Kingの故郷からロンセストンと名付けた。

 1827年頃、人口は2000名に達し、タスマニア北部の農産物輸出センターとなった。小さなホテルやビール醸造業者が出来て1830年には本格的なホテルが建設された。教会、学校、劇場がホテルを中心として作られ、スポーツグループや政治グループなどが出現した。




  人口がある程度増加したころに、クリケットやフットボールが盛んになってきた。スポーツはミドルクラスのレクレーションであり、週6日労働の労働者階級には無縁のものであったが、スポーツ施設に対する労働者階級の要望が強く、北部タスマニアクリケット連盟グラウンドが1860年代に整備された。1851年には、同グラウンドで豪州最初のトップクラスのクリケットマッチが開催されている。

1871年には北西タスマニアのビショフ山(Mount Bischoff)で錫鉱脈が発見され、1877年にはビーコンフィールド(Beaconsfield)で金鉱山が開発された。その後の20年間でタスマニアの産業は大きく伸びて都市が開発されている。1889年にホバートに続いてロンセストン市が宣言されている。

  ロンセストンは、北部タスマニアの農業牧畜産業の中心地であり、リンゴやぶどうの産地として歴史的に有名である。極上クラスの羊毛は、タスマニア北東部の重要な品目で海外から多くのバイヤーが購入する。






 ロンセストン市中央部の建物の多くは、19世紀と20世紀初期に建築されており、フェデレーション様式の建物が多い。ジョージア期や、ビクトリア期、アールデコ期の建物も良く保存されている。
Holyman House、 Lucks Corner、Star Theatre in Invermay、Launceston General Hospitalなど。20世紀の建物では、 Government offices of Henty House in Charles Street, the Police Station Building and the ANZ Building on the corner of Brisbane & George Street.
建設規制があり、多くは5階建て以下となっている。

公式Web

 ロンセストン

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