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2008年6月19日(木)
高原地帯
クレードルマウンテン Cradle Mountain
(世界遺産 World Heritage)
タスマニア Tasmania
この場所の地図 Google Map

今日も一日、曇っていました。気温は、15度ほどです。南半球の冬至を明後日にひかえて朝晩は最も暗い時期です。
週末も曇り及び雨の見込みです。

昨年の今日2007年6月19日(マスカレード 仮面舞踏会

クレードル山の遠景。
2枚目以降は、クレードル山の近郊です。

 タスマニアへの入植は、1804年にシドニーからの入植者によって始まっています。イギリス本国からシドニーへは頻繁に補給船が入り、羊の数も順調に増えていました。タスマニアへ連れてくる羊の数には限界がありました。そこで頼ったのがカンガルーの肉です。カンガルーの肉でさえも不足しており、最初の頃は、病人などへの配給とされていました。1806年には、カンガルーの肉も不足して深刻な食糧不足の事態になっています。羊の飼育数がやっと増えてきたのは、1808年の頃になります。
NSW州では、初期のころを除いてはほとんどカンガルーを食べていません。
ビクトリア州では、1835年にタスマニアからの入植団によって始まっていますが、当初から大量の羊を連れてきており、ほとんどカンガルーの肉には頼っていません。


 1820年代には、カンガルーは、タスマニアの貨幣に登場します。カンガルーを食用からオーストラリアのシンボルとしてみなすようになっています。1850年代には、カンガルーは多くの貨幣やシンボルマークに登場し始めます。1843年には、メルボルンは、カンガルーを市の紋章のデザインの中央部に取り入れています。ビクトリア植民地は、1851年に植民地として独立しましたが、やはりカンガルーを紋章として採用しました。NSW植民地やアデレードもカンガルーを紋章に取り入れています。
各州は、独自の考えで採用しており、カンガルーを持ってシンボルと考えるようになっていることがわかります。



 1800年代の後半には新たな問題が発生します。カンガルーの生息数の爆発的な増加です。羊の増加により、入植者はカンガルーを食べなくなりました。一方でアボリジニの人口は、病気や虐殺などで大幅に減ってしまい、カンガルーを捕殺する天敵がいなくなったのです。
そのためカンガルーは害獣であるとの認識が農民の間にひろがり公然としたカンガルーの大虐殺が始まります。
1870年代からはカンガルードライブ(Kangaloo Drive)という方式が取り入れられました。1877年にはクイーンズランドで有袋類駆除法が成立し、本格的にカンガルー狩が始まりました。もちろんコアラなども害獣と考えられ数万頭単位で処分されています。NSWでも1880年に牧草及び家畜保護法が成立して有袋類の全滅作戦が始まりました。1900年代に入り、豪州が成立した後も各州のカンガルーの捕殺は続き毎年100万頭ほどのカンガルーが処分されています。

 このような状況は、1970年に野生動物保護法が成立するまで続きました。1971年の報告では、カンガルーは、ある程度の数を商業的に捕獲して絶滅の危険性はないというものです。もちろん豪州の多くの動物保護団体は、このような意見を受け入れていません。

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